かなしみの住み処
スーとの突然の別れから、この春で一年が過ぎた。
この一年は自分にとって、なんとも表現に困る一年だった。ごく通常の生活を送ったようでもあり、なにもかもがちぐはぐだったような気もする。穏やかだと言えばそうかもしれないし、荒涼だと言えばそうとも思える。
要するに、自分でもよく分からない。ただ一年と少しが経った、分かるのはそれだけのことでしかない。
振り落とされないようにしがみつく、というほど荒天だったわけでもない。
何もかもが夢の中のような、あらゆることに実感の伴わない離人の世界に放り込まれたわけでもない。
まして涙に暮れるわけでも、気を紛らわすために無我夢中で東奔西走したわけでもなかった。
それらはどれも多少はあったことは確かだが、アウト・オブ・コントロールに陥ることはなかったように思う。
それよりもじっと見極めようとしていた、と言った方が近いかもしれない。惑わされぬように、焦って転ばぬように、まず自分を律することに集中していたような気がする。とは言ってもつまりはある意味「必死に」御しようとしていたわけだから、僕は十分動揺していたのだと思うし、混乱していた。白状してしまえば、正直なところかなり参っていた。本当に、参っていた。
自分がどうなっているのかよく分からないまましばらく経ったある日、「あぁ、自分はかなしいのだ」と気づいた。
「悲しい」のでも「哀しい」のでもない気がする。何となく「かなしい」がしっくりときた。
かなしみについて初めて知ったことがある。それはかなしみとは本来癒えるものでも和らぐものでもないということ。
かなしみは血肉となって生き続ける。別にそれで何か悪さをするわけでもない。ひっそりと、静かに、かなしみはその宿主と共にあるのだということ。
僕のかなしみは、僕の体の中に住み処を見つけられただろうか。
そうだといい。
この写真はスーが亡くなってから最初に撮ったものだ。写真というのはだいたい撮ったときの思いが写るものなのに、こればかりはどういう思いで撮ったのか、自分でもさっぱり分からない。
写り込んでいるアンテナは隣家のものだったのだが、その隣家も去年の夏に取り壊されてしまった。自分に馴染んだ街が変わっていくのを見るのはなんとも憂鬱なものだ。