変わるもの、変わらないもの
私は物理的なものであれ、記憶のような無形のものであれ、基本的に「物持ち」が良いほうである。それはパソコン内のデータですら例外ではない。
最近は物を減らすほうへシフトしており、捨てたり買取に出したりしているが、それも無闇に処分するわけではない。
CD ならロスレスでリッピングするのはもちろんのこと、ジャケットや帯、背面ジャケットもケースを外してスキャンする。書籍なら注意深く裁断し、可読性より身代わりとしての忠実性に重きを置いてスキャンする。当然ゴミが入っていたらスキャンし直しだ。
要は「手元に原本がなくなっても困らない(=後悔しない)よう対処してから処分する」わけだ。だから片付けると一言で言っても、思い立った朝にまとめて縛ってぽいと出す、ということはしない。
このような生き方をしていると、自分の中にあらゆる情報が蓄積していく。整理には慣れているから、どんなに情報量が増えても再び取り出すのにそう手間はかからない。ことデジタルファイルにおいて100分の1を見つけ出す労力と1000分の1を見つけ出す労力にそう違いはない。
それだけ「過去」が溜まっているものだから、あるとき「昔の自分」にばったり出くわすことがある。すると今の自分とのギャップに戸惑うことも多い。
例えば音楽なら、「なぜこれが好きだったのか今となってはよく分からない」ということがある。端的に言えば「好みが変わった」ということなのだろうが、いつどのように変化したのか、自分自身分からないのである。いくらその時々の「好き」を集めていても、その自分自身の変遷までも残しておくことはできないのだろう。
新聞のスクラップでも同様のことを感じることがある。新聞から切り抜いて、あとでスキャンしようと思ったまま6年ほど経過したものがあった。先日それら化石になりかけた切り抜きをやっとスキャンしたのだが、中身を読んでみるとなるほどと思うものもあったものの、半数以上はいまいちピンとこないものであった。今となっては残しておこうとは思わない、それほど琴線に触れないものに変わっていた。
分水嶺のあちら側とこちら側。それが切り替わる「変質の瞬間」が6年のうちどこかであったはずなのだが、見逃してしまったようだ。
音楽の好みが変わる。揃えた漫画やアニメ BD は売りに出し、かつて好きだった小説家の新刊は手に取らなくなり、バックアップまでしていたデータを躊躇せず削除する。
変わるもの、変わらないもの。
今私が気に入って聴いている音楽も、20年後はどうなっているか分からない。それを思うと、なんだかふわふわとした不安定さを憶えるのだ。
そんないやな気持ちになると、こう考えるようにしている。
それら「自分」と「事物」と「時間」という三次元から時間軸を取り去ってしまおうと。
そこには自分と過去・現在・未来にとらわれない事物との関係のみがある。
スケジュール帳から時間軸を取り去った状態を想像してほしい。
すべての「予定だったもの」と「予定」がごちゃ混ぜのスープになる。誰々に会う、洗剤を買う、ライブに行く、会議、会食、免許更新 etc.
もうこのスケジュールに矛盾なんて野暮なものはない! それらみんな同時にこなして何がおかしい。
自分にはよく聴くそれほど好きでもない歌がある。
自分には心に響くピンとこない言葉がある。
自分には興奮するあくびが出そうな映画がある。
自分には役立つどうでもいい情報がある。
自分には変わる変わらないものがある。
自分の人生から時間という指標を取り上げてしまうと、目の前にはあまりに広大で自由な世界が広がる気がするのだ。
あらゆるものに対して好きになる可能性がある。その可能性が未来永劫続いていく。
そして自分に言い聞かせる。変わることは怖いことではないと。生きていくことは怖いことではない、と。