仮想は真実を現す

20160303

それなりの期間、自分という人間をやっていると大まかなりにも己の人となりというのを把握してくるものである。こういうセンスが大好きだというのも分かってくるし、自分はこういうことにイラッとくる性癖があるということも自覚してくる。だから面倒くさい事態にならぬよう、トラブルを未然に防ぐ動きがとれるようになったりする。予測していれば負わずに済んだであろう無駄な痛手、ケアレスミスもあまりしなくなってくる。要するに人生というゲームにおける自分というプレイヤーの立ち回りが掴めてくるわけだ。

ところがテレビゲームに始まるコンピューターゲームをやっていると、それは自分の延長線上にあるキャラクター、プレイヤーなのに思わぬプレイスタイル、言ってみれば「ゲームでの生き方」を目にすることがある。普段の自分では自覚していなかった一面が見えたりする。

例えば私は自分で自分のことを慎重な人間だと思っている。あまり考えなしに行動するということはしない。石橋を叩いて渡り、もし嫌な予感がしたら引き返して遠回りして渡る人間である。実際に町を歩いていてもなにか嫌な予感がしたら道順を変えたりする。そういう勘とか気づきを尊重する人間だと思う。
「ジョジョの奇妙な冒険」で『吉良吉影は静かに暮らしたい』という副題のついた一連のお話がある。まさにこれである。私は静かに暮らしたい。なんと甘美な響きであろう。

だからどちらかといえば自分はおとなしいほうだと思うし、決して賑やかな人間ではないと自覚している。アメリカに住んだとしても土曜の夜にパーティーなんかたぶん開かないだろう。

こんな性格だからゲームでもどちらかといえば後方支援的な、バックアップ要員が向いていると思っている。しかし蓋を開けてみると正直自分でも「へえ」と思ったりすることがある。

どうやら自分は戦うのが好きなようなのだ。それもかなりの前線で。


『スプラトゥーン』では攻略の鍵はひとつだけではない。言ってしまえば敵を倒すかどうかは勝利条件に関係なかったりする。だから初心者でも活躍できる要素があり勝利に貢献できるという、アクションゲームではかなり希有なゲームだと思う。
最初は自分の性格から裏道をまず押さえつつ地を固める、極力敵キャラとは正面からやり合わないプレイスタイルでやっていた。ところがある程度慣れてきた頃「もっと出て行きたいな」と思うようになった。それで武器種を変更し中盤を固めるスタイルを取り入れてみるとこれがはまった。おもしろい。自陣を固めつつ進入してくる敵を排除する。
これが自分に合ったスタイルかと続けていたら、なんと「もっとガンガン食い破りてえな」と思うようになった。それでまた武器種を変え前線で敵陣を食っていくスタイルを試してみた。

ヒャッハー!

敵陣を食い荒らし、振り向きざまに背後の敵を迎え撃つ。脳汁出まくりである。どこがおとなしい人間だこの野郎と自分で突っ込みたくなる変貌だ。

『Ingress』も青チームと緑チームに分かれて陣地を取り合うゲームであるが、これも好戦的なプレイをしている。私は青チームなのだが、緑が侵入してくると結構イラッとくる。だから焼き払う。敵の本拠地では相手にとって(取り返すときの経験値が入らないので)おいしくないよう、あえて完全には落とさない。瀕死の状態にするだけである。本当にいやなやつである。

『モンスターハンター』や『ゴッドイーター』では近距離でパワーで押していくスタイルだ。

こうなると自分の性格がよく分からなくなってくる。本当は何を望んでいるのだろうかと。


ネットスラングでもう何年も前から「リア充」という言葉がある。私はこの言葉が嫌いである。これは「実生活が充実している人」を指す言葉なのだが(リアは後方を指すのではなく「リアル」から来ている)、実際は単なる劣等感や僻みによる蔑視の表現に過ぎない。この言葉を聞くたび見るたび私は思うのだ。おまえにとってネットやアニメやゲームは現実ではないのかと。その楽しさは本当の感情ではないのかと。ネットだって現実の人の集まりであって仮想なんかではない。楽しい、おもしろい、悲しい、切ない。そういう感情だって演算に基づくとってつけた演出ではないだろう。
勝手に「あちらは現実、こちらは仮想」と自分自身で線引きして「自分のこれは偽物だ」と一生懸命に言い聞かせているだけだ。自分を貶めているのはほかの誰でもない、自分自身なのだ。
そういう意味でこの世に仮想なんかありはしない。すべては現実のあり方の違いでしかない。認めようが認めまいがこの世には現実しかない。頭の中で考えたことだって、ひとつの現実のかたちだ。
現実世界の中での仮想とは、物事のある一面の真実を現す鏡のようなものでしかないと私は思っている。そして真実は見る角度ごとに違う。だからひとつの鏡だけで結論を出してしまうのはもったいないと思うのだ。

だからおそらくゲームの中で血気盛んな私は、実際に血気盛んな私なのだろう。そして穏やかに静かな日々を送りたいと願う私も、実際に私自身なのだろう。
ある人の隠された一面を見たかったら一緒にゲームしてみるといいかもしれない。向き不向きというのは才能というより単に性格によるところが大きかったりするもので、思わぬ発見があるかもしれない。

それにしても、人は見かけによらないものである。くれぐれも私に武器は持たせないほうが良い。

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