適度にいい感じでやっちゃって

20160718

洗濯機を買い換えた。今まで使っていたのは全自動洗濯機で、21年使った。脱水があまくなり V ベルトを交換してしばらくは使い続けることができたが、今度はモーターそのものが力尽きたのか、洗濯時すら羽が満足に回らなくなった。長年使った家電製品は修理しても応急処置にしかならないものである。

母上の要望で今度洗濯機を買うときは全自動ではなく(ましてドラム式などではなく)、昔ながらの二槽式洗濯機と決めていた。二槽式洗濯機は製造社数も機種数も減ってはいるものの普通に売っているし、二槽式が良いという声は今なお多い。母上と店舗で実機を見たりした後、アクア(旧三洋の洗濯機・冷蔵庫部門)の AQW-N550 を購入した。

http://aqua-has.com/laundry/product/aqw04/N550/

実際使い始めてすでに2週間ほど毎日のように洗濯をしているが、使い勝手はまさに快適そのものである。無論要望点もあるが、これほど手放しで買い換えて良かったと言えるのもそうそうない経験である。
洗濯の自由度は今までと比較にならないし、肝心の洗濯・脱水の性能はもうずば抜けていると言って良い。もうこう断言してしまおうと思う。洗濯機は二槽式に限る。


要望点もあると言ったが、全自動洗濯機を基準として二槽式洗濯機の正直な評価を書いておく。

  • 洗濯、脱水の能力
    • 洗浄能力は二槽式のほうが上だと思う。根拠は回転力。水流の強さが違う。
      脱水は段違い。カラッと脱水できる。やはり脱水槽が独立している分、モーターが強力なのであろう。
      そして洗濯時間、脱水時間をいつでも調整できるのは便利である。「7分で始めたけど汚れはひどくないしこれなら5分でいいな」とか「入れ忘れてた洗濯物があったから3分くらいプラスするか」とか。そんな融通に何の問題もなく応えてくれる。
  • 洗濯機のサイズ
    • 幅は全自動洗濯機より多く取る。その代わり奥行きは減る。全自動洗濯機は正方形に近いが、二槽式は横長になる。うちの場合は奥行きが減ったことにより通路が広くなって良かった。
  • 運転音
    • 二槽式はうるさいという声も見かけるが、うちで使っていた全自動洗濯機と比べると、変わらないか若干静かになっている。隣の部屋ではもう運転音がまったく聞こえないというような、よほど静かな洗濯機を現在使っている人なら気になるかもしれない。だが私の感覚からするとうるさいと感じることはなく、ただ普通に洗濯している音である。
  • 価格
    • 二槽式は安い。ヨドバシカメラで2万5千円、設置料と前洗濯機のリサイクル料を払っても3万で済んだ。
  • 使い勝手
    • 二槽式は良くも悪くも自分がコントロールする必要がある。言い換えれば自分がすべてコントロールできる。給水の際、水の注水・止水は水栓を自分で開け閉めする必要があるが、それはつまり水量に関してすべて自分の判断でコントロールできるということである。これを不便とみるか自由とみるかは人によるだろう。実際やってみると洗濯時は家にいるわけで注水でどうこうととりたててそれが面倒ということはない。
      とにかく洗濯に関わるのが嫌で、洗濯物を放り込んだら終わるまで一切何もしたくないという人は全自動洗濯機が向いていると思う。
  • お湯取り(風呂の残り湯を再利用するあれ)
    • 洗濯機にポンプ機能はない(機種によってはお湯取りホースの取り付け口はある)ので、残り湯を使うためには別途お湯取りポンプとホースを用意する必要がある。うちでは全自動洗濯機の内蔵ポンプがもうずっと前に壊れていたので、この点の手間は変わっていない。外部お湯取りポンプといってもスイッチひとつなので不便はない。
      ひとつこの機種 AQW-N550 で改良要望を出すとすると、お湯取りホースを接続すると、洗濯槽の蓋が閉められないという点である。蓋のホース接続部周辺を抜くか、ホース接続口を操作部側へするなどの改善があると良い。
  • その他
    • 二槽式洗濯機は完成された家電、という評がある。シンプルな設計であり、耐久性にも期待はできるが、こればかりは使い続けてみないと分からない。
      夏の水仕事は気持ちの良いものだが、真冬はきついだろうなとは思う。昔は冬場はゴム手袋をはめて使っていた。今冬はどうだろうか。
      ここがこうなったらもっと使い勝手がいいかもしれない、と思う点は日常的に使っていると当然いくつか出てくる。だが今のところ性能で不満はまったくないし、少なくともまた洗濯機を買う機会があったら、二槽式洗濯機以外は候補にすら挙がらないだろう。それが正直な感想である。

メーカーの人たちがこの感想を読んだら、もしかしたら渋い顔をするかもしれない。開発部と営業部ではまた反応が違うだろうが、とにかく大手メーカーが今コストを注ぎ込んでいるのは二槽式洗濯機ではない。

多機能であることと、使いやすいこと。これはもしかしたら物作りにおける命題かもしれない。
多くの場合、多機能になればなるほど使いにくい。それは多機能だから操作体系が複雑になるということもあるし、ユーザインタフェースが多くの操作を兼任することになるので汎用性を取った結果、操作しにくいという面もあるだろう。
ある目的に特化したデザインというのは美しい。「そのために」考えられ、作られたものなのだから当然使いやすい。効率も良くなる。使う側にも無理がないから安全面にも貢献する。

タブレット端末が出始めの頃、パソコンの代わりになるかどうかという論争が方々でよくわき上がっていた。人によってはなる、人によってはならない、という当たり前の結論にしかならないわけだが、そこでよく例としてこう言われていた。「タブレットがあればパソコンはもういらないというのは『十徳ナイフがあれば包丁はもういらない』というようなもの」。
十徳ナイフで料理できるか。やれと言われればできないことはないが、めちゃくちゃやりにくい。好きこのんでわざわざやるようなことではない。逆に山に行くのにわざわざ包丁とまな板、カトラリーセットを持って行くのは野暮というものである。
十徳ナイフは多機能ではあるが、それぞれの目的において使いやすい道具というわけではない。でも荷物を極力減らしたいシーンでは最低限の役目を果たしてくれる上に荷物の省略には多大な貢献をする。

スマートフォンは多機能である。だが通話という目的からすると使いづらい。というか話しづらい。話しやすいのはなんと言っても黒電話の受話器である。持ちやすいし、手を使いたいときは肩とも挟みやすい。受話器に画面なんかないので通話後の皮脂を気にする必要もない。たしかに調べ物から連絡手段、スケジュール、音楽プレイヤー、それらが一枚の端末に集約されているというのは便利である。だが自宅で道路を調べたいときはスマートフォンは使わずに昭文社の「都市地図」を開く。そのほうが見やすいからだ。

多機能なものは使いづらく、目的に特化したものはすなわち多機能ではない。ところが物事はそう単純でもない。特化した専用の道具・家電とはいってもそれは程度の問題とも言える。一枚の葉といってもミクロの視点を持てば、そこには複雑で高度に成立した構造・システムが機能している。それと同じように、多機能か単機能かというのは我々がどのように対象を捉えるかの問題に過ぎない。

例えばバッテリーを積んだ自動車がどんどん一般的になってきている。そう遠くないうちに乗用車にも冷蔵ボックスや簡単な電子レンジ機能が搭載されると思う。その前に保冷・保温に対応したドリンクホルダーがメーカーオプションで出てくるだろう。電気が潤沢に使えるようになれば人が留まる場所は当然そうなる。その一方で今時エアコン標準装備であることやパワーウィンドウであることを売りにする車種もないだろう。技術の進歩というのはそういうものだ。多機能になるのは悪いことでは決してない。

インターネット・オブ・シングズの時代だとよく言われる。インターネット・オブ・シングズ、IoT だから多機能かというとそういうことでもなく、IoT の要点はモノ同士が会話できるようになる、ということにある。
例えば私はなぜすでにそうなっていないのかが不思議でならないのだが、家の契約電力というものがある。よくクーラーと電子レンジとドライヤーを同時に使ったらブレーカーが落ちたというあれだ。我が家は驚きの 30A である。今時 30A のワンルームだってないだろう。どうにかやりくりしてそれで我が家のハイテク基地は成り立っている。
本当なら 30A を超えそうになった時点で家の電力網が察知して新たな機器への電力供給を行わないなどの対応を取るべきなのだ。IoT の時代ならもっと進歩して、家電同士が連携しているので使用電力を調整するだけで対応できる。そして家のコンシェルジュがその旨アナウンスするのだ。「電力供給調整のため一時的にエアコンを送風モードにしました」と。なぜ私がこんなに腹を立てているのかというと昨晩ブレーカーが落ちたからである。掃除機なんてどう考えても優先順位低いだろう!

要するに何を言いたいのかというと、機能の豊富さと便利さと使いやすさはそれぞれ別の独立した指標なのだろうということだ。便利だから使いやすいのかというとそうとも限らない。いろいろやってくれるのはすなわち自由度が損なわれるかというと必ずしもそうとも言い切れない。洗濯の具合はこちらがコントロールしたいが、電力供給はいちいち考えたくないので察知して適切に対応して欲しい。物事によって我々の望みはばらばらだ。

日本語にはこんな表現がある。
「器用貧乏」、なまじいろいろ器用にできると大成するのは寧ろ大変だったりする。
「餅は餅屋」、物事にはそれぞれ専門家がいる。無理になんでもやろうとせず専門家に任せたほうが効率が良いことがある。

機能性と、便利であることと、使いやすいこと。この三者の関連性はとても難しい。定型のようにこれならこうという正解がない。結局のところ自分が何を(対象)、どれほど(程度)、何より(バランス)重視するかで変わってくる。部屋を業務用機器で揃えれば極上に快適で最高に効率の良い生活が約束されるかというとそうではないのだ。

適度というのが一番難しい。実際使ってみないと自分に合っているかも分からない。そもそも自分がなにを望んでいたのかも、不便に感じて初めて気づいたりする。自分にとっての適度・適切の度合いを手探りで知っていくのが人生なのだろうか。試行錯誤を続けていけばそのうちとてもとても居心地の良い生活を満喫できるようになるだろうか。自分の五感になじむ家電。自分の手足の延長のようにフィットする家電。仮にそんなものを見つけたとしても家電の寿命はそんなに長くない。壊れたときにまた同じような製品があるとは限らない。どうしたらいいのだろうか。世の中難しいことばかりだ。洗濯しながらそんなことを最近考えている。

きっと神様は私たちにこう言って人生に送り出しているのだろう。「適度にいい感じでやっちゃって」と。
…それ結構難しいよ、父上?

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