あちら側とこちら側

201600922_1

私はもしかしたらひねくれているのかもしれないが、自分自身のキーワードというかテーマというものを挙げるとしたらそれは「二面性」になると思う。そしてそのふたつの「面」は1枚の紙のどちらの面を見るかの問題に過ぎない、という視点だ。

私個人の価値観、物事の見方として具体例を挙げるとこうなる。

  • 「生」と「死」は共存している。
  • 「表」と「裏」は同じものであって、それは自分の視点に依存する。
  • 「わたし」と「あなた」はどちらも自分自身であり、また相手自身でもある。
  • 「すべて違う」は「すべて同じ」と同義である。
  • 「影」は「光」の姿のひとつである。
  • 「動」と「静」はどの時間で区切るかによる。止まっているものはこの世界にない。と同時に俯瞰すればすべてのものは調和の元に止まっているとも言える。
  • そして、物事は「二面」だけではなくあたかも「球」であるかのように無限の面が存在する。そしてそれはもはや「ただひとつの面」とも言えるかもしれない。

要するに私は「判断しない」性向である。なぜなら世界は「判断できない」ものであるから。判断するためには「ここまで」と区切る必要があるし、区切るということはそれ以外を放棄するということだ。実生活はこの「放棄」作業の連続とも言えるわけだが、少なくとも人生観という形而上的な話をすれば、何事も判断できないことばかりである。

その性向がたとえば生活の中のどのような場面で現れるかというと、社会的事件などの報道を(できるだけ見聞きしないように気をつけているのだが不本意にも)目にしたときである。凄惨な事件であっても私は自然と容疑者などを「ひどい」とか「なんてことを」などと思わない。そう努力しているわけではなく、そういう感情があまり出てこないのである。「容疑」なのだからそもそも何も判断できる段階ではないという基本的な話ではあるが、とりあえずそれは置いておくとして、あくまで感情面でどう感じるのかというと「なんでまた」とか「なにが彼をそこまで追い詰めたのか」といったところだ。むしろ同情の念に近いかもしれない。だから私はニュース番組を見ながら食事をするといった「悪食」はしたくもないし、する人間は家人であっても軽蔑している。

感情論が吹きやすい事件として「虐め」「強姦」そして「虐待」が筆頭に上がると思うが、これも同じである。「容疑」の数々が仮にみな「事実」だったとして、その罪を背負うのは当然だが、それよりも重要なのはその背景ではないか、というのが私のそのような事件に関してのいつもの見方であった。

一般論として、虐待をする親自身も虐待を受けていたケースが多いとか、育児などでノイローゼになってしまうと何をしてもおかしくはないといったことは理解している。しかし世代間で連鎖する虐待のケースでいえば具体的にどのような環境で育てば常軌を逸した行為を平然と行えるようになる、いわば「頭のねじが抜ける」のかといったことは想像がつかなかった。「そりゃ殴る蹴るの暴行とか、性的虐待とか、人格を否定する暴言、そういう体験からの自尊心の欠如とか…そういうことでは?」というのが関の山であった。つまり私の想像力では「人を壊すほどの行為」というのは具体的に捉えられないものらしい。


201600922_2

「『鬼畜』の家 わが子を殺す親たち」(石井光太著、ISBN:9784103054566)を読んだ。この本を知ったのは以下の書評による。

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/09/post-5815.php

本の紹介自体は上記の書評を参考にしてほしい。
私の感想を誤解を恐れずにいうと、おもしろかった。それもものすごくおもしろかった。もちろんその「おもしろい」は funny や amusing ではなく interesting であるのだが、かくもぶっ飛んでいるとは思わなかった。本当にぶっ飛びすぎていて嫌悪感より驚嘆の念が先に来る。すごい。

私は正直「こんな世界があるんだなあ」という感想を抱いてしまったのだが、これがもしフィクションであるならまったくおもしろくない。不快で白けるだけである。だけどこれが実際に今私がいる部屋と地続きの、電車と徒歩で行ける場所にあるのである。隔絶された孤島で生み出された独特な生態系の話ではないのだ。つい自分自身と「その場所」のあいだには境界線があるように思われるが、そんなものはないのだろう。あちら側とこちら側。住む世界が違うと思いがちだがそうではない。私と彼らのあいだには河も山脈もありはしないのだ。


印象的な部分をいくつか引用する。

「あの二人って、パッと見てわかる大きな異常があるってわけじゃないんです。ワルとかっていう感じだってない。(中略)でも、考え方とか、常識とか、愛情のかけ方とか、全部がちょっとずつズレてるんです。そのちょっとのズレがあり過ぎるんです」

私はこの田舎の繁華街を歩いてみて、既視感を覚えずにはいられなかった。先に取り上げた、「厚木市幼児餓死白骨化事件」の舞台となった本厚木、そして後に述べる「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」の舞台となった竹の塚とあまりに似ていたからである。
駅前には歓楽街が広がり、郊外の住宅地には貧困が蔓延している。そこで、家庭環境に恵まれなかった者たちが高校を中退して十代で子どもを産み、夜の街でホステスとして働きながら、やがて我が子を殺める、というおおよその図式だ。そうしてみると、この風景が多くの若者にとって、闇に閉ざされた行き先のない路地のように見えてくるのだった。

「最初はどうしようって悩んでた。でも、なんか途中からよくわかんなくなっちゃって」

「でも、妹たちはそうじゃなかった。母親に相手にされなかったことで、さっさと逃げた。それはそれで、成功だったんじゃないですか」

タイトルもよくできている。「鬼畜の家」ではない。「『鬼畜』の家」である。「鬼畜」に括弧がついているということは、暗に「鬼畜と表現されているもの」ということを指している。つまり著者か編集者かは分からないが、タイトルをつけた人自身は彼らを「鬼畜」と表現してはいない。無論それは決して「擁護」ではない。その「背景」にスポットを当てるのが目的であることがこのタイトルに込められている。要するにワイドショーや女性週刊誌的な浅はかな動機や目的ではない。


読後の教訓として私は以下を挙げる。

  • 住む場所は大事。社会の吹き溜まりのような地域はたしかに存在する。いかがわしいエリアがある街には端的に言って「そういうのが目に入っても平気」な人たちが住んでいる。自分の感性、倫理観に沿う街に住め。
  • 避妊にルーズなやつからはとにかく全力ダッシュで逃げろ。服を着る前にまず縁を切れ。
  • ごみ屋敷と呼ばれるような、ごみを病的に片付けられない人はレッドカード。関わらない方が良い。
  • 金がないといいながら食事が外食ばかり、自炊を一切しないというのもかなりヤバい。関わらない方が良い。
  • 類は友を呼ぶ。スタンド使いはスタンド使いと引かれ合う。
    つまりヤバいやつとグダグダ言いながら結局離れられないのは本人もヤバいということ。逃げろ。

本書のエピローグは印象的である。何が印象的かって、本編に登場してもまったくおかしくない人が出てくるのだが、子どもの結末が異なっているのだ。何が違ったのか、どこが分岐点になったのか。もしかしたらそれはほんの些細なことなのかもしれない。だが、可能性はわずかだが残っているのだということを私は受け取ることができた。濃い一冊である。

  • 20160923003506