自己犠牲の精神と自尊心は共存するか

私が子どもの頃から考えていたことがある。それが表題のとおり「自己犠牲の精神と自尊心は両立させることができるのか」なのだが、まずバックグラウンドの話をしよう。

私は幼い頃から教会に通い、日本生まれ日本育ちの日本人としては珍しく割とガチなキリスト教の宗教的バックグラウンドを持っている[1]。キリスト教と一口に言っても玉石混交であるが大きなくくりで言えばプロテスタントである(芸術的側面からするとカトリックのほうが好きだ)。今ではキリスト教という枠組みを超えてしまい、クリスチャンの要素は持ちながらも自分ではもうクリスチャンではないと思っている(より正確に言えば「もはや自分は教会の求めるクリスチャン基準に準拠していない」と思っている)。宗教は、ともし聞かれれば消去法でクリスチャンと答えるだろうが、当のクリスチャンからすれば私など異端児であろう。石を投げられても文句は言えない。
「普通の日本人」には到底持ち得ないキリスト教の知識と精神が幼い時分から身についたのはラッキーだった。少なくとも欧米圏(ロシア含む)、その植民地の国々(英語やスペイン語、フランス語圏)の人たちとやっていくには常識云々以前の文化的背景として聖書に通じていないとギャグのひとつも言えない。デイヴィッド、ジョン、ルーク、マイケル、ポール、マリア。名前などを考えれば、本来宗教とは信仰云々のプロパティなどではなく、文化よりさらにもっと根源的なものかもしれない[2]

さて、そんな私が小学生の頃からだろうか、徳として教えられる「自己犠牲の精神(自己犠牲愛)」と「自尊心(自己愛)」について悶々とすることがあった。これら2つの精神はそれぞれ別の独立した教えとして説教されるものの、同時に扱うことはなかったし、その関係性を説くことは一度もなかった。私の中ではそれらは相反するものに見え、それらを両立させるにはどうしたらいいのか分からなかったのである。

具体的に示すと、聖書の中ではこのような記述がある。

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
—ヨハネによる福音書 15章13節(新共同訳)

第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。
—マルコによる福音書 12章31節(新共同訳)

つまり、自分を犠牲にすることが最上の愛とされるのと同時に自分自身を愛せよと言う。これをどう両立させるのかが分からなかった。そんなことが可能なのかさえ分からなかった。教会の大人たちに聞いても「よく考えているのねえ」というような間抜けな答えしか返ってこない。
私は元々自分のことが愛せていない。自分などクソだと割と本気で思っていた。誰かひとり殺せるなら自分を殺したいと願う10代20代を過ごした。だから自分を犠牲にして他を優先することなどなんとも思わなかったし、おかげで優しいとか親切といった評判も立つのだが、私に言わせるとたいしたことではないのである。自分を切り刻みへし折ることなどどうも思わない人間なのだから。
だから他人を自分のように愛する、つまりまずは自分を愛せというのは分からないというよりも正直「気持ち悪い[3]」という生理的嫌悪感があった。


そして時は経ち、今年の春先のことになるのだが、風呂に浸かっているときふと降りてきたのである。積年の疑念がすっと理論的に分解されその在り方を理解することができたのだ。聖書的に言うならば天啓というほかないだろう。風呂で天啓というのもアレだが、考えてみればキリストだって洗礼のときに天啓を受けたのだから、おかしくはないのかもしれない。天啓を受けたければ服を脱げばいいと思います!(これが聖書ギャグである)

説明しよう。自己犠牲の愛と自尊心は両立するか。
具体的に考えてみよう。自分がとてもとても大事にしていたぬいぐるみがあったとする。子どもの頃からの思い出の相棒で、嬉しいときも辛いときも一緒に過ごした大切なぬいぐるみだ。
それをだれか(友人や親戚の子どもでもいい)が欲しいと言ったとする。その子は自分がこのぬいぐるみと出会った頃と同い年だ。あなたの脳裏にはいくつもの思いが去来する。そしてあなたはその大事なぬいぐるみをその子どもに渡す。大事にしてね、と。そしてぬいぐるみには今までありがとう、と。

このぬいぐるみがもし、次のようなものだったらどうだろう。部屋の片付けをしていたら長年押し入れの奥で埃を被り色も褪せているぬいぐるみが出てきた。誰にもらったかも思い出せない。明日燃えるゴミの日だしこれも捨てよう。それを見た子どもが言う。可愛い、ちょうだい!と。あなたはこんな汚いのを?と思いながら、いいよと渡す。

同じぬいぐるみだとしても本当に価値のある「思い」はどちらだろうか。
つまりこういうことである。自分が本当に大事にしているもの、価値のあるもの。それを捧げてこそ自己犠牲の愛になるのである。自分にとっていらないもの、ゴミのようなものを贈っても自己犠牲にはならないのだ。受け手にとってはどちらも同じかもしれない。だが自分が隣人を愛そうとなったらここには大きな差が生まれる。
自分自身をクソのようなものだと思い、死ねと思っている私が、身を投げて誰かを救ったとしてもそれは自己犠牲でもなんでもないのである。(だが助けられた人にもたらされた「結果」には関係のないことだろう。動機がどうであれ感謝はされるかもしれない。)

自己犠牲の愛と自尊心は共存するか。私の答えはこうだ。
共存するか、両立するかどうか以前に、自尊心がなければ自己犠牲に価値は生まれないのである。自分を愛していなければ、自分を捨てたところでそれはゴミを捨てていることと変わりはない。自分を犠牲にすることと自分を愛することは相反するものであるどころか、切っても切り離せない関係にある。
だから疑問を持っていたあの頃の自分にはこう言ってやるべきだったのだ。まずはあなた自身の存在を許すことから始めなさい、と。

ちなみに「今思えば…」だがこのことは聖書的な裏付けもあるので悩める子羊の皆は安心してほしい。

イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
—ルカによる福音書 21章1-4節(新共同訳)

気づいてしまえばなんのことはない、当たり前だとも思えることなのだが、私は気づくのに20数年を要した。
自尊心がないと散々書いたが、私は最近やっと自分にも存在する意味はあるかもしれないと思い始めているので一応少しは大事にしている。健康にも気を遣ったり。自分を愛するにはまず野菜ジュースからである。

  • 20191007152100