気のせい

雑誌「GQ JAPAN」7月、8月&9月合併号は各界の著名人からのメッセージを集めた特別号となっている。
坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣、YOSHIKI、草間彌生、リリー・フランキーとそれは錚々たるメンバーで、どれも興味深く読んだ。

GQ JAPAN No.201 / 7・8・9月合併号 (JAN: 4910045910904, 雑誌: 04591-09)

以下に私がとくに「これは」と思った言葉を紹介する。
なお GQ JAPAN のウェブサイトでは、寄せられたメッセージの全文をウェブ紙上で紹介する企画が進んでいる(雑誌は編集版)。各メッセージのうち、すでにウェブ誌に掲載されているものについてはリンクもあわせて記載する。

https://www.gqjapan.jp/magazine/backnumber/20200518/gq-vol201

https://www.gqjapan.jp/tag/a-message-of-hope


新しい「国立競技場」や「浅草文化観光センター」、台湾のパイナップルケーキのお店「サニーヒルズ南青山店」など木を活かした印象的な作品の多い建築家・隈研吾はこのように語る。

20世紀がいかに人々をハコの中に密に閉じ込めていたかを、僕らに教えてくれる試練です。ひとりで、自由に距離を選択しながら働き、そして住む時代がやってきます。

GQ JAPAN No.201 / 7・8・9月合併号 P.94
https://www.gqjapan.jp/culture/article/20200614-kengo-kuma-message

実に建築家らしい視点だなと思った。考えてみるとその通りである。建築とはつまり人間を閉じ込めるためのハコを作ることに他ならない。この概念がもし変わるとしたら建築史に残るマイルストーンになるだろう。


また哲学者・千葉雅也のメッセージは実に示唆に富んでいた。メッセージを寄せた多くの人が「この大変革で世界はもっとよくなる」「数十年分の改革が一気に進む」と楽観視している中で、氏の指摘はひときわ異彩を放っていた。だが私は「ポイント・オブ・ビュー」としてはこれが一番人間と社会の本質を突いていたと思う。

現在、清く正しく生きよとでも言うかのような道徳主義が蔓延しています。しかし、人間というのは認知能力が過剰に進化した特殊な動物で、つねに不安に苛まれているがゆえに、何かを禁止され、行動を制限されることを進んで受け入れるものなのです。通常思われているのとは反対に、禁欲とは安易なことです。「易きに流れる」とは自堕落な生活をすることではありません。自堕落に生きるのはむしろ気合いが要ることで、禁欲によって安心を得ようとすることこそが「易きに流れる」ことなのです。時代は易きに流れようとしています。これからは、禁欲に抗し、あえて「難しい生き方」をする覚悟が問われることになるだろうと思います。

GQ JAPAN No.201 / 7・8・9月合併号 P.106
(現在ウェブ誌には掲載されていない)

今現在進行形でこの問題は進んでいる。社会はいよいよ管理と監視の度合いを強めようとしている。市民も多くは「安心」を担保にそれに甘んじようとしている。歴史を振り返っても、難局において人は羊飼いに従順についていく羊の群れのように、自ら進んで禁欲の囲いに入っていく。それが何をもたらすのだろう。歴史上の残虐は、政府の一部の人間が思いつきでやったことではなく、実際のところ市民がそう望んだものなのだ。なぜか。自分で考え、自分の価値観で、自分の責任で、正しいことをしようとするのはとてつもなく「難しい」ことだからだ。なぜそうも簡単に放棄してしまうのか。氏の言葉を借りれば「つねに不安に苛まれている」からかもしれない。その気持ちは分からなくもないが、果たしてそれが本当に「正しい」ことなのかはたとえ囲いの中であっても考え続けるべきだろう。


そんななか、私はひとりの人物のメッセージにとても考えさせられた。かの美輪明宏である。
氏は人間にとってなにか難しいことに直面したときに必要になるのは知性であり、また冷たい理性であると語る。とかくそのようなときには感情的になりやすく、物事を実際よりも辛いことのように捉えたりしがちだが、大事なのはそれを理性でコントロールし、冷たくクールで静かで平和な状態に自分の心身を置くことが重要だと述べたのちにこのように語っている。

弱気とか、元気とか陰気だとか天気とか人気とか、気というのが世界を支配しています。とにかく人間の気がいろんなふうに影響を与えます。気をしっかりもつとか、とにかく気ですから、気を陰なほうにもっていかないように心がけることですね。

GQ JAPAN No.201 / 7・8・9月合併号 P.60
https://www.gqjapan.jp/culture/article/20200524-akihiro-miwa-message

私ははっとさせられた。「弱気とか、元気とか陰気だとか天気とか人気とか、気というのが世界を支配している」。

人はよく「病は気から」という。私はそれを聞くたび「気ではどうしようもならない病もある」と思うのだが、これはおそらく言葉足らずで「病(と戦うに)は(まず)気から(立ち向かわなければならない)」の略だろう。辞書を引くと「病は気の持ちようで良くも悪くもなる」などと書かれているが(広辞苑 第五版)、んなこたーない。
指を切ったことに気づかなかったのに、血を見たとたん痛みを感じるとかはあるので気が病に対してのインプレッションに影響を与えるというのは理解できるが、「病が治らないのは消極的になっているからだ」的な意味合いで遣われるのは「気」も心外であろう。とにかく気が人間の心身に影響を及ぼすのは重々承知している。

だけどなんだ、「天気」とか「人気」とか。まさにこれも「気」ではないか。なぜ今まで気づかなかったのだろうと思った。
そう考えるとまさに、本当に私たちの世界は「気」ばかりである。「気持ち」「気分」「気圧」「気配けはい」「気配り」「気乗り」「根気」「人気ひとけ」「気がかり」…。

私自身もそうなのだが、低気圧が近づくと心身に不調をきたす人も多かろう。よく鞭打ちをした人などは「天気が下り坂なのが分かる」という。弱気だとか気の持ちようだとか、そういうことではないのだ。
私が鬱病に苦しんでいた頃は天気図を見ては一喜一憂していた。台風が南方で発生したとあれば「これは…落ちるぞ」と警戒したものである。実際問題、このような心構えができるのとできないのとでは鬱病とのつきあいはずいぶん変わる。

つまりこれは、言ってみれば「気のせい」なのである。

実際にはなにもないのだから「気」にするな、という意で「気のせい」という。だけどそれはけっして気のせいなどではない。『「気」のせい』なのである。気とは現実に存在する「なにか」なのだ。私はそのような「気」を大事にしたいと思う。ときにそれは「気づき」となるかもしれない。ただの「気まぐれ」かもしれない。でもそこになにかを感じたいと願う。繊細ななにかを感じ取りたいと願う。

気とは波のようなものだ。常に一定した波がないのと同じように、むしろ強弱の揺れがあるからこその波であるように、気もまた常に変化し続けるからこそ「気」なのだろう。そう考えると「人気絶頂」というのは実に残酷な言葉である。
しかし一方で安心感もある。常に落ち続ける「気」もまた存在しないし、荒れ続ける「気」も存在しない。気の在り方ひとつ、「気の持ちよう」であらゆることは変えられるのだろう。世のあれこれはみな「気のせい」なのだから。

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