社会人とはなにか
普段何気なく遣っている言葉で、よくよく考えるとその意味するところが曖昧であると気づくことがある。なんとなく、当たり前のように見聞きするがその実態は誰にも分からない。
そのひとつが「社会人」である。社会人とはなにか。社会に出る人、社会で活動する人、字面からいえばそうなるがあまりに軽薄で意味がない。
では「社会」とはなにか。ヒトは社会性の動物であるように、社会とは個と個の関係性が生み出す「場」といえる。そこにはなんらかの関係性という繋がりがあり、関数のような変化の伝達がある。A という個が B という個に衝突するとき、A の持つ動的エネルギーは B に伝播する。このときそこには社会が生まれている。袖が触れ合えばそこには他生の縁で繋がる社会が成立するわけだ。
一般的に「社会人」という語は「新社会人」とか「社会人一年生」「春から社会人です」などと就職したことと同時に使用されることが多い。しかしその意味するところは「労働者」となんら変わりはなく「新労働者」「労働者一年生」「春から労働者です」と等価に言い換えることができる。「社会人になります」などと聞くと、今まで社会人ではなかったのですか、20年間どうやって社会と無縁のまま生き延びてこられたのですかと小一時間問い詰めたくなる。私の悪い癖である。
「労働者」で済むところをなぜ敢えて「“社会”人」と表現するのかと考えると、それまでは保護者の庇護のもと生活を送ってきたが、これからは自己のためではなく社会全体のために生活していきます。私という人間の資質と労力、そして今まで享受してきた有形無形の財産を社会に還元していきます、というマルクスもむせび泣きそうな覚悟の表明とも受け取れる。そこまで腹を括っていたのか新社会人。疑って悪かった。
つまり世の中のすべての人間は社会人ということができる。胎児でさえ母との一心同体の社会を形成する一員であり、立派な社会人である。では孤独な老人はどうか。年金を受給し週に2回のデイサービスを利用していれば疑いの余地はない。当然ながら社会人であるかどうかに当人の認知能力の如何は無関係であろう。
恋人同士には二人だけの社会があり、師弟関係には門外不出の社会がある。家庭は社会の最小単位などと言われるが、家庭はすでに相当規模の大きい社会といえる。前述のように人間が二人揃えば社会が形成される。三人揃えば派閥ができる。ヒトとは呆れるほどに社会に依存した動物である。それはもはや病的ともいえ人類総「関係性依存症」患者と言えよう。七つの大罪と言われる「傲慢」「強欲」「嫉妬」「憤怒」「色欲」「暴食」「怠惰」はその代表的な症状ととれる。アダムはイヴがいたから罪を犯したのではない。アダムはヒトとして生まれたが故に罪人なのだ。人は社会の中で罪を犯すのではなく、社会そのものであるから罪を犯すのだ。
地球で生まれた人間は地球人と一括りにできるし、この宇宙で生まれた人間(に相当する生物)は宇宙人と括ることができる。
地球人はゼントラーディ人とアイドルをめぐって戦い、ジオン公国は地球からの独立を目指す。日本人はついこのあいだまで世界大戦の中心にあり、国内では阪神ファンと巨人ファンが殴り合っている。きのこの山とたけのこの里で血みどろの戦が幾度も勃発し終結する気配はない。今日も世界中で子ども達のとっくみあいが繰り広げられているだろう。すべてそれぞれの属性社会内での衝突である。社会の中でさらに入れ子構造的に社会を形成していき、仲間内(社会構成員)だけに通用する流行り言葉(方言)を生み出し、敵対社会を排除する勢力が急進する。ヒトの本能といっていい社会様式だ。
一方、「非社会人」というのを考えてみると興味深い。「社会人でない」とはなにか。それは「個人」だろうか? しかし個と個が揃えば社会が生まれることを考えると真の「個人」などというものはこの世に存在しないことになる。
社会には胎児となったときから一員として含有される「出自型社会」と、自らコミット(深く関わること)することにより参加する「参加型社会」のふたつに分けることができる。
出自型社会というのはなにも生まれただけで認知される社会に限らず、例えばコンビニで買い物をするだけでも消費活動に関わる経済社会の一員になるわけであり、そこに意思は存在しない。私がセブンイレブンでポテトチップスを買えば、私はどれだけ孤独を望んだとしてもセブン&アイ・ホールディングスとポテトチップス製造会社(カルビーとか湖池屋とか)の全従業員、運送関係者をはじめジャガイモ農家の一族ならびに所属農協関係者とは無関係でいられない。現金で払ったのなら造幣局とも繋がりができてしまう。Suica で払った? それなら JR 東日本と FeliCa を開発した Sony の… ジャガイモがアメリカ産だったときにはその関係者は天文学的な数になる。まったくおぞましい話だが社会とはそういうものである。私が一歩街を歩けば社会が動く。この世界はバタフライ効果どころではない変化の連続が起きている。
つまり私の言いたいことはこういうことだ。○○株式会社に入社すれば○○株式会社社員になるが、それは本当に自らコミットした社会なのか? これを黙考してみると、自分の属する社会というのはほとんどが自動登録的に名前が記録された、住民票のようなクラス名簿のような、目録社会に過ぎない気がしてくる。【本当に自分が存在する社会】とはなんなのか?
これを考えると人が孤立しているかどうかは結局のところ「参加型社会」に属しているかどうかによるのではないか。「出自型社会」に安堵を覚えたとしても、充足感は得られないのではないか。または自ら「場」を作り出す「創造型社会」の主席メンバーであれば、たとえ構成員が自分ひとりだとしてもそこには無限大の社会が生まれるのではないか。
自分はどの社会に属しているのだろうか。それを考えると私には大小無数の円が幾重にも重なり描かれた広大な模造紙が目に浮かぶ。私という点もその紙上のどこかに存在しているのだろうが、砂浜でひと粒の砂塵を探すのと同義で見つけることはできない。私を取り囲む知覚できないほど那由他の輪の海に、恐怖を覚える。
私は私という一点のみが含まれる世界で唯一無二の円を描きたいと願う。この宇宙という時空で、私だけが入ることのできる円。秘密基地と言っていい。私を形づくるすべてのものがある極小の世界。ヤドカリはその貝殻の中に自分だけの社会を創り出す。私は社会について考えるとき、その安らぎを夢想する。そして自らに問いかけるのだ。私は社会人なのだろうかと。その問いの答えは、いまだ出ない。