ただのりんごじゃないかもしれない
2022年の春、りんごの蓋物を購入した。横浜元町での花見帰り、道路越しのショーウィンドウにみとめたそのりんご(のようななにか)に一目惚れし、そのまま持って帰ることになった。1967年製、ノリタケによるものだった。
https://19810720.org/20220406204120/りんごじゃないかもしれない/
我が家に来たその「りんご」はダイニングテーブルの上で、飴ちゃん入れとして新たな居場所をえたわけだが、一年ほど経ったある日、りんごは思わぬ転機を迎えることになった。
陶器であるということは即ち、それは壊れ物である。かたちあるもの、いつの日か壊れるものだ。
そしてかのりんごも例外ではなく、割れた。ちゃんと割れた。きっぱりと迷いなく割れた。
以前から私は「金継ぎ」に興味があり、その美的センスには感嘆するだけでなく、「いつか金継ぎで割れた器や欠けた器を直したい」という憧れがあった。しかしどこで金継ぎをやっているのかも知らなかったし、なにしろ「金を使う」というイメージが強すぎて宝飾品レベルの費用がかかるものだという先入観があった。金で器の割れ目を埋めているのだと思っていたのだ。
そのため接着剤とレジンなどを使って「なんちゃって金継ぎ」っぽく自分で直そうかとぼんやりと思ったまま数ヶ月が過ぎた頃、Instagram のおすすめ投稿でこんなのが流れてきた。
長野は安曇野で金継ぎをされている
金継ぎだ、すげー、かっこいいーと思っていたらほどなくして金継ぎ修理の受注会をおこなうという。壊れた器を持っていって、直し方を相談しながら決めて、預ける。数ヶ月ののち、直った器を受け取る。
目安となる修理例の料金を見ると想像よりずっと安い。金なのになんで?っていうくらい。
とにかくこれならば手が出るし、なによりこのとんとん拍子のタイミングもなにかの縁と申し込むことにした。
茶花さんに金継ぎについていろいろと教えてもらった。金継ぎというとどうしても「金」にスポットが当たるが、実は漆の技術がその土台にある。簡単に言えば、割れた器を漆でくっつけて、その表面を金粉で装飾する。溶かした金を流しこんでいるのだと思っていた私は目から鱗であった。
昔は漆職人が副業として金継ぎをおこなっていたそうである。それくらい金継ぎとは漆工芸の派生形といえるらしい。
そしてもうひとつの驚きは、表面を装飾する素材は「金」に限らない。真鍮粉や錫粉、そしてなんと白金粉(プラチナ!)まである。[1]
それを聞いたらもうプラチナも使いたくなってくる。しかしやはり長年の憧れの「金継ぎ」、金をまずは使いたいし、なによりこのりんごの朱色には金が合う。どうしたものか。
悩む私に茶花さんは言った。「表と裏で違う素材もできます」。
!?
つまり私がイメージしていたような「金を埋め込む」ものではなく、漆を原料とした天然の接着剤で割れを修復し、整えたのちに表面を金属素材などで修復する(顔料?などを混ぜた色漆を使う仕上げもある)という工程なので、表面側と裏面側で別素材で仕上げることが可能なのだ。なんということでしょう。それならば憧れ&夢の共演、金と白金でいくしかない!
外の朱色側を金、内側の白色側を白金とした。わあ、金継ぎですか、すごいですねと蓋を取ったら中はまさかの白金継ぎ。やばい、おしゃれすぎる。
茶の湯の器では、釉薬や焼け方の具合でできる濃淡や陰影を「景色」と呼ぶ。それを眺めて想像し愛でることがひとつ楽しみとなる。
私は金継ぎも似た趣をもつと思った。樹のようにも見えるし、角のようにも見える。なにか芽吹きのような勢いも感じる。
金継ぎとはつくづく味わい深い。
そもそもなぜ金継ぎをするのかといえば、それは器が壊れたからである。誰しもが器を割ってしまった経験があると思う。そのときの胸の疼きを思い出してほしい。それが自分のならまだいい。例えば家族の器を割ってしまったときのぐっさりと抉られるような痛み。後悔。申し訳なさ。
時間を戻すことはできない。いちど割れた器は元には戻らない。まったく苦い経験でしかない。
その象徴である「割れ」をあえて魅せる。直すだけではない。なにか別の、新たな器へ生まれ変わらせる。
傷を忘れるのではなく、その傷があるからこその美しさへ昇華させる。それは私にはどうしても「人生」と重なって見える。
人は誰でも傷を負っている。「あの傷を負って良かった」などとは決して思わないし、言うことはできない。しかしただ苦しいだけの経験が、今のこの美しさに繋がっているのだとしたら。「あの痛みにも意味はあったのかもしれない」と振り返られる日が来るかもしれない。そんな日がいつか来たらいい。金継ぎを眺めていると、そんな思いも去来する。
そのりんごはもはやただのりんごではない。誇大も脚色もなく文字通り、宇宙でただひとつ、唯一無二のりんごになった。
この先も未来永劫同じりんごが生まれることはない。あの日テーブルから転がり落ちたその一瞬の偶然が、この一期一会の美を生み出したのだ。
申込時と受け取り時の2回、長野へドライブしたが、長野はなかなかいい。長距離ドライブにちょうどいい。空は広い。山は綺麗。蕎麦は美味い。今度は星を観に、また再訪したい。