健康とはいったいなんなのか?
古今東西、人類にとって「健康」とは常に社会のなかで、また個々の人生のなかにあって大きなトピックに挙がってきたのではないだろうか。
有名無名にかかわらず、自堕落な、破滅的な人生を送ったとされるある種の人間にとってさえ、真の意味で健康に無縁であったわけではなく、その薄い一枚の皮の下には「アンチ・健康」という精神が流れている気がする。俗に「太く短く生きる」などというが、それは隣の人間を意識した上でのエクスキューズに私には見える。それが純粋に望む生き方であるならば「太い/細い、短い/長い」という相対評価ではなく自立した充足、すなわち「私は本当に恵まれた人生を送っている」という絶対的な評価になるはずだからだ。
なぜこんなことを考えているかというと、何気なくふだん口にする「健康」にどうも根本的な誤解があるのではないかと思ったからだ。
私たちはなんとなく「健康」と「長生き」を同列とまでは言わずとも、関連項目として自分の「常識ウィキペディア」に記述しているのではないか。
一度落ち着いて考えてみれば当たり前のことでこれ自体には論を
むしろ不健康とされる生活習慣を始終続けていた人間が、平均寿命を超えてある日ぽっくり逝くまで元気に明るく過ごすかもしれない。
もちろん統計として見れば、生活習慣病と言われるようにある疾病と健康のあいだには因果関係が認められているし、有意な差もあるだろう。
しかし「私」が仮に「健康」だからといって、「長生き」するとは限らない。まったくその保証はない。文字通り、明日の朝、生きて目が覚めるかどうかも分からない。可能性は低いかもしれないが、今宵が人生最期の夜になることは十分にあり得る。
しかし私は健康に生きたいと思っている。それは長生きしたいからではない。健康診断でオールAを取ったところで、私の寿命に数時間が加えられるわけではないのだ。
「健康」とはそもそもなにか?
世界保健機関(WHO)はその憲章で健康を定義している。
「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」
“Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.”
またこのようにも書かれている。
「到達しうる最高基準の健康を享有することは、人種、宗教、政治的信念又は経済的若しくは社会的条件の差別なしに万人の有する基本的権利の一である。」
“The enjoyment of the highest attainable standard of health is one of the fundamental rights of every human being without distinction of race, religion, political belief, economic or social condition.”
これを読むと英語の “Health” の語源が「whole(完全な)th(こと)」であることは実に示唆的だ。
つまり健康とは「本来享有しているべき完全な状態」であり、それを人や社会が損なうというのは侵害といえるかもしれない。
これは平たく言ってしまえば「尊重する」という敬意の話になってくる。つまり「自分の生命、自分の肉体、自分の精神、そして自分の属する社会に敬意を払っているか?」ということだ。
クリスチャン的な考えをすればこれは、「自分という存在は自分のものではない。神様から戴いた(私個人としては「借りている」または「預かっている」というほうがしっくりくる)器であるから、大切に扱う」ということになろう。
最も著名な投資家のひとり、ウォーレン・バフェットの言葉にこんなものがある。
「あなたが車を1台持っていて、一生その車にしか乗れないとしよう。当然あなたはその車を大切にあつかうだろう。マメにオイルを交換したり、慎重な運転を心がけたりするはずだ。
そこで考えて欲しいのは、あなたが一生にひとつの替えが効かない心と体しか持つ事ができないという事だ」
私の考え方に合わせれば、この「車」がさらに「自分のモノ」ではなく人から借りている車だとしたら?という話だ。自分の車だから好きにしていい、ということには一層ならない。
そこではじめの問いに戻る。私は健康に生きたいと思っている。それは長生きしたいからではない。ではなんのために?
「命に敬意を払いたいから」というような大仰なものでは決してない。つまるところ「自分のものではないから(丁寧に扱おうとするのは)当たり前じゃない?」くらいの感覚が正直なところだ。
世の中では相も変わらず「健康」はキラーワードだ。(我ながら秀逸なジョーク)
しかしその健康は「なにかのために」、たとえば「長生き」とか「活動的に」とか「美しく」といった報酬、悪く言えば「エサ」をぶら下げてそれを得るための代償(健康のために良い食生活を、運動を、睡眠を…etc.)に貶められている。
そのように捉えているかぎり「報酬はいらないので健康は求めない」という頓珍漢な選択が出てくる。きっとそもそもが関係のないことなのだ。
健康だからなにかが手に入るわけではない。健康とは銀河鉄道の特等席に乗るための切符ではない。
健康とは自分自身と社会の「健康に生きる」という権利にどういう態度をとっているかの問題なのだ。病気だからとか不随だからなどとは無関係だ。命をどう見ているか、人生に敬意を払っているかの問題なのだろう。
健康とは、数値で表されるものではない。なにを食べ、なにを飲むかの問題でもない。
自分を・世界をどう見ているかという「目」であるような気がするのだ。