多すぎる
高齢の両親が年々、どころか日に日に、弱くなってきている。母上はまだ物忘れと多少低くなった背を自分で嘆いているくらいだが、父上はいよいよ弱っていくばかりで先日は救急搬送される事態にもなった。
人が弱っていく様を見ていると、根源的な問いが私を襲う。『我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか』。そして目の前にいるのが家族であればその向こうには当然、自分自身の予測値が重なる。すなわち『私はどこから来たのか。私は何者か。私はどこへ行くのか』という恐ろしい問いが目の前に立ちはだかるのだ。
風の噂には聞いていた。だがどうやら人は本当に老い衰えていくもので、やがては死ぬらしい。にわかには信じがたいのだが、人って本当に死ぬらしいのだ。嘘みたいな話だ。
がたがたと揺れる車内でも、備えつけられた引き戸の扉は開かない。マグネット式なのだろうか。車に関心があるせいか、装備がいろいろと気になる。ふと、みうらじゅんが言っていた言葉がよみがえる。
「知ってます? 人は、死ぬんだって。噂だけど、まだ。」[1]
またまたぁ。
………。
まるでわるい冗談だ。だがその一方で薄ら暗いカーテンのような嫌な予感も頭の部屋の片隅でちらちらと存在感を仄めかす。死んだことがあるという人に会ったことなんて一度もないのに、誰も彼もが言う。なんだかすごく不気味だ。空虚な得体の知れないものを中心に世界が廻っている。みんな分かった風に語るくせに避けて通ろうとするそこにはいったいなにがあるんだ?
ふだんは道を空ける側の自分が、サイレンを鳴らしながら道を空けてもらう側になってみると「あの話はマジだったのか? 本当に?」という気がしてくる。
世界は広い。私はその世界をどれほど見ることができるのだろう。七つの海を越え、六大陸を踏破し、見たことのない樹に触れ、聞いたことのない鳥の声を聞く。間に合うだろうか? つい考えてしまう。
読みたい本が多すぎる。聴きたい音楽が多すぎる。観たい映画が多すぎる。行きたい美術館が多すぎる。知りたいことが多すぎる。考えたいことが多すぎる。分かりたいことが多すぎる。
やりたいことが多すぎる。馬に乗りたい。海亀と泳ぎたい。外国に住みたい。沙漠を歩きたい。宇宙に行きたい。自分の常識をかるく越えていく人々と文化に出会いたい。
オーロラを見たい。南十字星を見たい。ダイヤモンドダストを見たい。ウユニ塩湖を歩きたい。モロッコで夕陽を見たい。
インドの路上でチャイを飲みたい。ドイツでザワークラウトが食べたい。お酒はふだん飲まないが、冬のロシアでならウォッカだろう(もちろんロシア文学を読みながら、だ)。南極の氷でアイスコーヒーを淹れたい。
できていないことも多すぎる。むかしの恋人にはまだ謝れていないし、家族に恩返しもできていない。そもそも人のためになにかもできていない。私はまだなにもできていない。お前はいったい今までなにをやっていたんだ? 時間はたくさんあったのに。
私は小舟で大海へ漕ぎ出し、ひとりで釣り糸を垂らしているような気持ちになる。世界中の魚を釣りたいのに、このペースだとどうみても間に合いそうにないのだ。気が急く。だけどいっこうに釣り糸は揺れない。
私にはこの世界は広すぎる。別の太陽系にも行ってみたいのに、間に合うだろうか? この星だってまだ探検し終えていないのに。
この世界は美しいものがありすぎる。図鑑を開くと、どれもこれもまだ見たことのない生き物ばかりだ。掘り当てたことのない石ばかりだ。かいだことのない花ばかりだ。やってみなきゃ、なにも分からない。私がすべて発見し終えるのはいつになるだろう?
じっと見届けたいことも多すぎる。庭に植えた小指の太さほどの銀杏の木が、両の手でも抱えられないくらいの大木となるまで年輪が一枚一枚重ねられていく様をずっと見ていたい。毎日少しずつ変わっていく世界を、あの海岸線が少し風化したとか土星の輪がいい角度になったとか変化に気づきながらずっと眺めていたい。鍾乳石の成長を毎年見守りたい。
それと、小さくていいから、うちにいつか隕石が落ちてくる日を私は楽しみに待っている。あまり大きいのは困るけれど。屋根に穴が空くくらいのやつでいい。流星群の夜はいつも、ここに飛んできたらどうしようってちょっとどきどきしながら見上げている。
でも、人が言うには、夢を全部叶え終える前に死んでしまうこともあるらしいのだ。なんだよそれ。そんなのつまんないじゃん。まだやりたいこといっぱいあるのに。見たいところばかりなのに。
赤信号でも進んでいく車窓からの景色は、見蕩れる間もないまま過ぎ去っていく。
私には、やるべきことがある。やりたいことがある。どうやら時間は、限られているらしい。