世界の芯と、それをとりまくものについて
カラカラ、という乾いた音が鳴り響いている。子どもの頃から耳に馴染んだ音だ。高熱を出した日も、夜の帳を溜息で揺らした夜も、いつも耳にしていた気がする。その音は遠い異国のクルミの入ったラトルで赤子をあやす乳母を思い起こさせる。
カラカラ…。
19世紀の東欧のとある王国で、王室の乳母だったエカテリーナ・アバクモワはメイドも手を焼くほどいたずら好きのおてんばだった幼い公女にこう諭したという。
この世界のあらゆるものにはその芯となる真実がある。その芯がなくては何事も成り立たないが、人が生きていくにはその芯をとりまくものが何より必要なのだ。あなたの芯はそのままに、そして誰もが触れたくなるような柔らかい衣を纏いなさい。
僕は最初この言葉を読んだときに本当にそうなのか考えてみたのだが、考えるほどに確かにそうかもしれないという気がした。例えば。
- リンゴ。芯は食べられず、食するのはそれをとりまく果肉である。
- 家。芯(土台や柱)はなくてはならないが、人が快適に住むには壁や家具などが大事である。
- 社会における人。人は言うまでもなく大事だが、組織や社会として見た場合、重要なのはその人が成す働きそのものである。
- これを考えていくと人を消耗品のように扱うあれやこれが思い浮かんでくるのでやめることにしよう。
そうなると場合によっては人が必要とする固有のものは実は外側だけで、芯となるものは案外なんでもいい、ということもあるかもしれない。なんでもいいと言うと語弊があるかもしれないが、要は「自分が求める外側を支える芯が機能していればよい」ということになる。
言葉が「芯」「外側(とりまくもの)」と今は表現しているので分かりづらいが、言い換えれば「外側=求めるもの」「芯=求めるものを支えるもの」ということになる。
コップで例えるならこういうことになるだろうか。
- コップに水が入っている。喉が渇いた私が求めているのは水であり、コップはその水を支えているに過ぎない。
- このコップが仮にペットボトルだったとする。何か問題はあるだろうか。いや、ない。私が求めている水に変わりはないからだ。
- では仮にコップに入っているのがアルコールだったらどうか。水が飲みたい自分にとってそれは本望ではない。
- これがアルコールではなく麦茶だったら問題はないかもしれない。
- アルコールでもコーンポタージュでも得体の知れない液体でもなんでも構わないという場合は「空気が入っているだけ」と考えればよい。つまり空っぽということだが。
つまり観察者となる「自分」が誰であるかによって物事の「芯」と「とりまくもの」と「自分」の三者関係は変わるということだ。そして時には、「とりまくもの」こそが存在の本質を表すのかもしれない。
これを一国を統べる(可能性のあった)公女に話して聞かせたというのは実に興味深い[1]。王や政府が誰であれ、人々が求めているのは自分たちの日々の生活である。しかも人によって求めるものは違ってくる。王は自らを器として、水を求める者には水を与え、葡萄酒を求める者には葡萄酒を与える。王というのも大変なのだなぁ、と少年だった僕は妙に感心したのだった。
ところでこの文章は、新しいブログでの各エレメント(blockquote、ul、hr、etc)の表示確認用に、トイレットペーパーの芯と、それをとりまくロールについて書いた適当な文章である。エカテリーナ・アバクモワという名前もロシア系でつけた創作だ。本気にしないで欲しい。
ただひとつ私が声高に言いたいのは、紙が減ってきたら率先してトイレットペーパーを取り替えろということである。芯をとりまくものが何よりも重要であり、人々が求めるものなのだから。