優柔不断の美

何年かに一回、くらいのペースで人の文章に感銘を受けることがある。もうちょっとその頻度が高ければ滋味深い日常を送れそうだが、数年に一度あれば感謝するべきものかもしれない。

まずはその文章を紹介しようと思う。全文載せるのはやめたほうがいいかなとも悩んだのだが、そこを推してでも紹介した方が益すると判断した。

Dr. 泉谷の人生相談 07
(「JAF Mate 2017 12月号」より)

今月のお悩み
『熱中するほど好きなことがありません。自分はつまらない人間でしょうか』(学生・10代後半女性)

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たしかに、何か熱中するものを持っている人は、生き生きと輝いて見えるものです。そんなふうになりたいと願うこと自体は、とても自然なことだと思います。しかし、そうでないからといって、自分を「つまらない人間」と考える必要はありません。

熱中する対象に、早々と子供時代に出会える人もいれば、人生の後半になって出会う人もいますが、必ずしも早ければよいというものでもありません。

そもそも、子供時代に何に出会えるかは、環境によってかなり左右されてしまいますし、そこで何かに出会えたとしても、必ずしもそのタイミングで良さがわかるとも限りません。成熟してからでなければ良さのわからないような対象に若くして出会っても、マイナスイメージしか残らない場合もあるのです。

また、興味を抱いて熱中できる対象は、一つの人生で一つだけと決まっているわけでもありません。年齢とともに興味の対象が移り変わっていくこともよくあります。

私たち日本人は、ドキュメンタリー番組に取り上げられるような「この道ひとすじ何十年」といった人生が良いものと考えがちですが、これは必ずしもすべての人に当てはまる話ではありません。紆余曲折を経て何かに出会う人生もあるでしょうし、さまざまなことを広く浅く器用にこなす資質の人もいる。また、淡々と日常を味わうことに幸せを感じるような生き方だってあるでしょう。

今の自分が知っている限られた範囲の中から、焦って何かを選んだりしなくてもよいのです。好奇心のアンテナを常に張って、決して、「面白いものなんてない」とたかをくくらず、自分の魂が震えるものを、しぶとく探し続けることが大切なのです。

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泉谷閑示 KANJI IZUMIYA

泉谷氏は精神科医であり作曲家。著書に『「普通がいい」という病』などがあるという。


このコラムを読んだとき、ひとつ思い出したことがある。もう7年ほど前の話になるのだが友人と食事をしていたとき「(物事の)視点を増やすにはどうしたらよいか」と聞かれたことがあった。私は一呼吸置いたのち、「結論を出さないこと」と答えた。彼女には意外な答えだったようで私は説明を続けた。

「たとえば今この目の前にある水の入ったグラス。僕から見ればグラスかもしれない。でも向かい側にいるきみから見たら違うかもしれない。じゃあ横から見たら? 上から見たら? 下は? そんなふうに自分が見たままで判断しないこと。判断しない限り、視点は無限に増え続ける。
星座にオリオン座ってあるでしょう? あれって宇宙の中の地球というものすごく限られたひとつの視点から見ているからオリオン座に見えるのであって、ロケットに乗って宇宙空間を遠くまで飛んでいって、横から見たらあれはオリオン座には見えない。そういうことじゃないかな?」

なぜこんなに細かく憶えているかというと、彼女が私の答えを気に入ったらしく Facebook に投稿していたからである。感謝。
というか、自分が今見ても「ダヨネ」と思うということは20代から考えが変わってないってことである。安西先生に「まるで成長していない…」と呆れられそうだが…。


「優柔不断」という言葉がある。ぐずぐずとして決断がなかなか下せないさまをいい、多くの場合良い意味では遣われないであろう。だが私はこの言葉にはもう一面があると思う。

「優柔」という言葉には「決断力に乏しいこと」といった意の他に、字面のごとく「やさしく、ものやわらかであること」といった意味がある。そして「不断」とは「決断力がないこと」の他に「絶えないこと、いつまでも続くこと」、そして「いつもその状態であること、日頃」という意がある。そう、「普段」と書くことが現代では多い「ふだん」である。「普段」は「不断」の当て字である。
つまり「優柔不断」とは「いつもものやわらかであること」と捉えることもできる。以前の記事で私はこんなことを書いていた。

自分の人生から時間という指標を取り上げてしまうと、目の前にはあまりに広大で自由な世界が広がる気がするのだ。
あらゆるものに対して好きになる可能性がある。その可能性が未来永劫続いていく。
そして自分に言い聞かせる。変わることは怖いことではないと。生きていくことは怖いことではない、と。

「変わるもの、変わらないもの」より
https://19810720.org/20160205222806/変わるもの、変わらないもの/

今仮に熱中できるものがないとしても。なんら興味を惹かれないことに対しても。いつか自分にとってとても味わい深いものになるかもしれない。時間というものさしをなくしてしまえば、その「いつか」はもうすでに自分の中にあるのだ。そんな無限の可能性が自分の中に存在している。その感覚はとてもとても「やわらかいきもち」になるものではないだろうか。自分はこうだとか、あの人はああだとか、これはこう、あれはどう、自分の世界を切り刻むかのように判断し続け、可能性を切り捨て続けるのはもったいないことだと私は思うのだ。


私が「不断」観るテレビ番組でアニメ以外で唯一といっていいのがマツコ・デラックス主演の「マツコの知らない世界」なのだが、先日和菓子老舗「とらや」17代目当主・黒川光博氏が出演された。

「変えてはいけないものはない」

氏の口癖とのことである。とらやは室町時代に創業し500年の歴史がある。その当主が言う。変えていけないものはない。


「りんごかもしれない」(ヨシタケ シンスケ著、ISBN:9784893095626)という絵本がある。
主人公の少年は、学校から家に帰ってくると、テーブルの上にひとつのりんごを見つける。そして彼は思う。「りんごに見えるが、もしかしたらりんごじゃないかもしれない…」と。

もしかしたら大きなさくらんぼかもしれない。
もしかしたら自分からは見えない反対側は、みかんかもしれない。
もしかしたら中身はメカがぎっしりつまっているかもしれない。
もしかしたら………。

泉谷氏も黒川氏も絵本の少年も、そして私も言葉は違えど同じことを言っているのはおもしろい。

優柔不断はじつに美しく、愉快だ。

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